ことばと辞書

 

先日の研修で聞いた講義の内容で、ひっかかっていることがあります。

 

特別講師の先生がおっしゃった言葉。

 

 

「辞書は偏差値50。言葉が得意な奴が『俺が意味をまとめる』って言って、まとめた本。だけど、『コミュニケーション』ってひいたら『意思疎通』としか書いてない。意味が十分じゃないよ。」

 

かなりぐいぐいと引っ張っていくような話し方をされる方で、終始弁舌が軽やかな先生でしたが、この言葉を聞いた瞬間、私はどうしてもその弁論に、待ったをかけたかった。

 

 

先生が仰りたいことはわかるのだけど、それが辞書なのだと思います、と言いたかった。

 

 

かつて、三省堂国語辞典の編集者のひとり・飯間浩明先生が、「辞書とは言葉の観察を記したもの」と仰っていたのを、何かの記事でお見かけしました。

(その記事がすぐに見つけ出せないのが悔しいのですが…)

 

飯間先生曰く、辞書とは、あくまでも「観察」の結果であり、「人々がその言葉の使う様子を観察した結果、この言葉はおよそこのように言えるだろう」というものを記したものだそうです。

 

 

わたしはこの、飯間先生の意見を支持しているから、講師の先生が仰った「平均的なことしか書いてない」という言葉に、棘と閉塞を突きつけられたように感じてしまい、つらかったのでした。

 

 

もうひとつ思い出したものがあります。

 

 

芥川龍之介の『侏儒の言葉』のなかの一文。

 

 

「文章の中にある言葉は辞書の中にある時よりも美しさを加えていなければならぬ。」

 

 

この美しさってなんだろう。

 

わたしは、具体的にこうとはいえないけれど、言葉が永遠に定義され得ないということに由来する美しさに繋がる話なのだと思います。

 

選んだ言葉の中に、そのひとの心が自然なものとして織り込まれた瞬間、完璧には定義され得ない言葉のなかに、特有の美しさが宿るのかな、と思うのです。

 

斎藤孝さんの本にも似た言葉があったような)

 

 

辞書に完璧な定義が載せられないのは、私たちは、単なる情報の交換だけではなく、心のやりとりのひとつとして言葉を選ぶいきものだから、ではなかろうか。

 

 

そんなことを、お酒を飲みながらふわふわと考えています。

 

酔いが覚めたら、この記事を読もう。

『言葉をずっと観察している 国語辞典編集者 飯間浩明 × 糸井重里

https://www.1101.com/iima/2017-01-16.html