3月上旬が終わりました
これからがんばりたいこと
それにまつわること
諸々について考えています
登用試験の日、高松駅のスタバでコーヒーを注文したら、桜の柄がプリントされたカップで出てきました。
不安もあるけれど、
お世話になったみなさんやこの場所のために
自分なりに頑張りたい
それが何かを花咲かせる力になれば、と
確かに思っていることだけ
誰に見られなくとも
ここに書いておきたいです
忙しかったあ。
前回、「かけ足、がんばります」なんて書いたけど、今日の忙しさは「かけ足」どころじゃなかった。
全力の短距離走でもなければ、
42.195kmの持久戦でもない。
そもそもこんな競技なんてないよ、とツッコミたくなるような忙しさ。
『借り物競走しながらデッサンしてね。ゴールする3歩前になったら、自分より二つ後ろの順位のひとと地球温暖化についてディベートして。あ、あと、スタートから10mごとにバク転してね。できたら、バク転前には1分くらいの即興劇を挟んでほしい。』
そんなことを求められてるような一日だった。
何を言ってるの、私。
何をしてたの、今日の私。
ともあれ、一日よく頑張りました。
明日は大きなお仕事ですからね。
もうそろそろ寝よう。
とても忙しい時期ですね。
年度末のお仕舞いをして、新年度の事も取り掛かって、行事ごとも重なって、異動がある部署の方は引継ぎもあって。
この2週間ちょっとくらい、ずっとかけ足のペースでお仕事をしている気がします。
去年よりはできることが増えたような気もするけど、それでもまだまだ不慣れなところが多いところとか、ペース配分や優先順位の付け方が下手なところとか、いっぱい課題があるのは確か…と自覚しています。
(特に私は後者が上手くできないことが多いので、直したい)
だからこそ、毎日こつこつ、焦らずに着実に頑張りたいです。
「日々の当たり前を、揺らぐことなく当たり前にできるように」ということが、私の部署に求められるもののひとつであるはず、と信じ、自分自身のペースをしっかりつかんでいけたら、と思っています。
あと、忙しい時期を過ぎたあたりで、「燃え尽き」を防ぐためのリフレッシュを挟みたいなと思ってます。
元々インドア派なので、いつものお休みの日なら、家でゆっくりして過ごすことが多く、外に出ると言っても、ちょっと近くを散歩したりする程度なのですが、こうした「非日常に近い大きい緊張感」のあとは、むしろちょっと遠出をしたほうが、しっかり心が充電できることが多い気がします。
いい意味でも悪い意味でも絡みついてしまった緊張感の糸を切るためには、自分自身を、物理的に、日常から縁遠いところに引き剥がすことがポイントなのかなと考えています。
どこかにいこうかな。
県内で、行ったことのないところとか。
それか思い切って県外まで足を伸ばすか。
できたら、在来線でのんびり長旅したいな。
楽しい計画をちゃんとたてながら、春まで乗り切っていきたい。
転ばないように無理せず、かけ足、頑張ります。
先日の研修で聞いた講義の内容で、ひっかかっていることがあります。
特別講師の先生がおっしゃった言葉。
「辞書は偏差値50。言葉が得意な奴が『俺が意味をまとめる』って言って、まとめた本。だけど、『コミュニケーション』ってひいたら『意思疎通』としか書いてない。意味が十分じゃないよ。」
かなりぐいぐいと引っ張っていくような話し方をされる方で、終始弁舌が軽やかな先生でしたが、この言葉を聞いた瞬間、私はどうしてもその弁論に、待ったをかけたかった。
先生が仰りたいことはわかるのだけど、それが辞書なのだと思います、と言いたかった。
かつて、三省堂国語辞典の編集者のひとり・飯間浩明先生が、「辞書とは言葉の観察を記したもの」と仰っていたのを、何かの記事でお見かけしました。
(その記事がすぐに見つけ出せないのが悔しいのですが…)
飯間先生曰く、辞書とは、あくまでも「観察」の結果であり、「人々がその言葉の使う様子を観察した結果、この言葉はおよそこのように言えるだろう」というものを記したものだそうです。
わたしはこの、飯間先生の意見を支持しているから、講師の先生が仰った「平均的なことしか書いてない」という言葉に、棘と閉塞を突きつけられたように感じてしまい、つらかったのでした。
もうひとつ思い出したものがあります。
「文章の中にある言葉は辞書の中にある時よりも美しさを加えていなければならぬ。」
この美しさってなんだろう。
わたしは、具体的にこうとはいえないけれど、言葉が永遠に定義され得ないということに由来する美しさに繋がる話なのだと思います。
選んだ言葉の中に、そのひとの心が自然なものとして織り込まれた瞬間、完璧には定義され得ない言葉のなかに、特有の美しさが宿るのかな、と思うのです。
(斎藤孝さんの本にも似た言葉があったような)
辞書に完璧な定義が載せられないのは、私たちは、単なる情報の交換だけではなく、心のやりとりのひとつとして言葉を選ぶいきものだから、ではなかろうか。
そんなことを、お酒を飲みながらふわふわと考えています。
酔いが覚めたら、この記事を読もう。
『言葉をずっと観察している 国語辞典編集者 飯間浩明 × 糸井重里』
https://www.1101.com/iima/2017-01-16.html
研修で高松に来ています。
目的は研修であるとはいえ、少しだけ地元に帰省をさせてもらっているような気持ちがして、ちょっとうれしいなあと思ってます。
お昼にはみんなでかけうどんを食べました。
おいしかったなあ。
ふるさとにかえってきたときの、「あ、かえってきたなあ」と思う感じって、なんだかうれしい心地よさを感じている瞬間だなあ、といつも思います。
生まれ育った川に戻された淡水魚が、水に滑り込んだ瞬間、ずっとここで生きていたかのように、すいすいと泳いでいくような。
水が合うという慣用句がありますが、まさにそのことばに言い表せられる場面なのだと思います。
そんな感覚を持てる場所が、自分にあるということも、すごくしあわせなことだから、なおのこと特別な気持ちになるのかもしれません。
いまは、2日目の研修前、ホテルのチェックアウトを済ませてから、高松駅前ですこし外で時間を潰しているところです。
ベンチに座っていると聞こえてくる、見知らぬ人の何気ない会話が、ふるさとの言葉であふれていて、なんだか湯船に浸かっているみたいに、ふわっと心が緩まる気がしました。
心の中には川に泳ぐ魚がいて、聞こえてくる言葉には湯船のあたたかさを感じる。
なんだか水に揺れる例えばかりでてくるのは、駅のすぐ近くから吹く海風がとても心地よいからかなあ。
そんな、詩のようなことを書きたくなるのも、ふるさとにかえってきたことに、心が浮かれているからです。たぶん。
記憶にある限り、初めてお化粧をしたのは、5歳の時の七五三だったと思います。
お化粧といっても、その時は、七五三の振袖を着せてもらったあと、最後の仕上げとして、母の手で、母の口紅を塗ってもらったというだけです。
せっかく塗ってもらったのに、こんなことを言うのは申し訳ないのですが、初めての口紅の感想は、綺麗とか、うれしいとかという気持ちではなく、「あぶらのようなにおいがして、なんだかへんなかんじ」でした。
七五三の晴れ姿に母の口紅を、なんて、とても素敵なお祝いを受けさせてもらったと、大人になった今なら思うのですが、それでもなんとなく、小さい頃の私が感じた「あぶらのようなにおい」への違和感は、脳裏に焼き付いている気がします。
あと、鏡を見た時の自分の顔が、唇だけ赤色に照っているのも、なんだか恥ずかしいなあ、と思っていたような。
(それはそれで「いちまさん」みたいでかわいかったんじゃないか、とも今なら思うんですが)
化粧という言葉は、「化け」「粧(めか)す」と書きますね。
化粧という言葉は日常で気軽に使う言葉なのに、漢字という点から解いてみると、なんだかとても厳かな、そして簡単に立ち入れない領域の行為のように感じます。
また、漢字の並びを眺めていると、例えば、能面をかぶった能楽師さんの足音であったり、白い布をかぶって『鷺娘』を舞う、日本舞踊の女性の姿であったりと、なぜかそういった、日本の伝統芸能の一場面が頭の中に思い起こされます。
実際、そうした伝統芸能や神事に臨む場面では、「化粧」は単なる演出にとどまるものではなく、神聖で特別な呪術的な意味合いもあるのだと思います。
また、それは、お化粧以外のきまりや所作、つまり、「能面を被る」「白い布をかぶって舞う」と同様の、「演じている自分の外側に装い添えて、本来の自分との線引きをする」ということも意義としてあるのだと思います。
見た目だけのことではなく、心に線を引いて、「ことに臨む」ための自分になるために。
もともとそんなに詳しくなくて、簡単なものしかできない私ですが、私は毎朝、出勤前の身支度として、「お化粧」をします。
そして、気持ちをしゃんと真っ直ぐにしたい朝や、心を充填したい時はいつも、最後の仕上げとして、赤い口紅を塗って出勤します。
母の口紅のにおいが気になっていた、5歳の時の私。
過去の自分の話なのにも関わらず、27歳になった今現在、5歳の時の私のことを、なんだかとてもいじらしく、いとおしく思います。
過去の自分のことや、大事に育てくれたひとを守るために、明日の私も、自分の外を「化け粧し」て、出勤のドアを開けるのだと思います。