寂しさを感じる時期といえば、なんとなく秋を想像します。
「愁」という字は形声文字だそうですが、漢文学者の白川静先生は、「愁」という字の成り立ちについてはむしろ、秋のものさびしい季節感に注目して解説しているそうです。
(http://gaus.livedoor.biz/archives/13069932.html)
豊穣や実りの時期でもあるけれど、だんだんと日が短くなり、木々の葉は枯れ落ち、生き物がみな、静かな方に歩んでいく時期、と思えば、秋は不思議な多面性がある気がします。
でもそれは、秋だけではなく、もうすぐくる春にも、同じことが言えるように思います。
先日の夕方、買い物に行こうとアパートのドアを開けたとき、夜の空気がやわらかい寒さになっていることに気づきました。
春めいているとはまだいえないけれど、真四角の氷が少し溶けたような、輪郭のまるい寒さを肌で感じていました。
そして、春が近づくことのうれしさと同じくらい、うまく言葉にできないさみしさのようなものを感じていました。
数ヶ月のうちに馴染んだ季節が過ぎていってしまう、ということだけではないと思います。
また、秋のように、「生き物が静かな方に歩む時期」だからでもありません。
春は息吹に満ち、暖かで幸せな季節であるけれど、ほとんど同時に、さまざまな別れと夢がある時期だからだと思います。
これから来る、新たな景色の中にはないもの。
いない人。
変わってしまう自分自身と戸惑い。
不安の中で描く夢。
自分の居場所の不安定さを痛感しながら、それでも信じていたいと思うきもち。
春の夕暮れ時、橙色と紫色がまじったような空を見ていると、うれしいような泣きたくなるような気持ちになるのは、春という時期に紐づいて、うれしさだったり、さみしさだったりというような、いろんな気持ちが去来するからだと思います。
冬の間、体温を奪わせまいと厚く着込んでいた上着が、少しずつ、軽く、薄いものに変わっていっています。
そんな自分の変化に気づいた時、自分は自分の体に更新をかけているのだと感じました。
上着を軽くするごとに、季節という時間が私の体に上書きされ、私たちの周りの思い出までもが、過ぎゆく冬に絡め取られ、奪われてしまうような。
そんな時間の更新に対して、心はあまりにもゆっくりとしか追いつけないのだと、諦念と共に考えていたりします。
花が咲きますように。
でも、まだ少し蕾のまま変わらないでいてくれますように。
そんな不条理なわがままを、無垢な子供のように心から信じている瞬間が、確かにあります。